函館は志海苔館(しのりだて)です。
ちょっと函館方面で仕事だったので、昨年撮らなかった志海苔館の写真を撮ってきました。
松前藩の由来を書く、新羅(しんら)之記録に道南十二館というのがあって、その中で一番東にあるのが志海苔館です。
多分、東蝦夷地ににらみをきかせる最前線だったのでしょう。
概して中世の北海道は記録が希薄なのでどんな人達がうごめいていたのか、逆に想像力を刺激するのですが、この志海苔館からは武具が出土していないそうですね。
でも規模は小さいんですが、東・南面は急峻な崖で、深い空掘りを巡らせたうえにしっかりとした土塀で囲まれている。
これはかなり実戦的に構築された城です。
比較的防御の手薄な北面も空掘りでしっかり防御されています。
中世の遺構というよりは、個人的には戦国時代の築城法に近い気がします。
そんな志海苔館。
実戦的に築城されるも、武具が出土しないそれは、最前線とはいっても領土拡大をもくろむ最前線ではなく対アイヌ交易の最前線だったのでしょうか。国内最大の埋納金が出土したのもこの志海苔館のふもとの海岸からでした。
そんな志海苔館もコシャマインの乱や続くアイヌの攻撃によって荒廃することになります。
今回講釈はこの辺にして、・・・
一つは西側の大手門。
もうひとつは写真の函館山(河野政通の箱館)を向き、
ひとつは大間を向いています。
これがこの城の秘密というか、真実でしょう。
大手門が西向きというのは、東側に仮想的がいて、味方勢力がその方向にいるということ。特に箱館が見えるようにしているのは、その方面が密接に連携しなければならない勢力であるということでしょうか。
対して、大間方面も望めるのは、多分、南部氏など交易の介入を阻止するためか、武装勢力に対する監視の必要があるからでしょう。
気になるのは、道南十二館の館主の名前がたいがい季(すえ)か政(まさ)がつくのに志海苔館館主の小林良景だけはもらってないんですね。
当時蝦夷地を管領していたのが安東家で、下国安東氏の政季(まさすえ)あたりから名前をもらうのが安東氏被官としてのステータスだったと思うのだが、小林良景だけがもらってない。子供の代になってもらうのだが、もしかしたら彼は安東氏ではなく河野氏の被官だったのではないだろうか?
館主だったこと、コシャマインの乱のスタートラインにいたことからフレームアップされたかも知れないですね。
志海苔館のロケーションからそんな事を考えちゃいました。
郭の広さはちょうど学校の体育館くらいでしょうか。
完全武装の武士がぎゅうぎゅうに詰めても100人が限界といったとこですか。
そりゃいくら本格的な築城でも落とされます。
写真は大手から西側の丘陵をみたとこですが、多分いくつかの支城はあったはずですね。
だから落とされた時も、まず本城が焼かれ、支城に逃げ、箱館に逃げて袋のねずみでやられちゃう、という構図です。
ううん。結論的にはまったく実戦的ではなかったか。
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